Cat's Brand ~ライブorアルコール~

ライブと酒とその他日常ネタです。

映画「秒速5センチメートル」DVD購入記念・とらのあなサイン会行ってきました&レビューというか、感想というか。(注:ネタバレ全開です)


「今振り返れば、きっとあの人も振り返ると・・・強く、感じた」


 ホントに一番最初、シネマライズで3月に観たときのファーストインプレッションは・・・“ああ、多分私のような人間にとって、こういう作風は「合う」のだろうな”と。起伏があって、壁があって、それを乗り越えて見る夢はそれはそれで大好きですが・・・同時に夢物語としての儚さと、現実とのギャップが逆に自身を落ち込ませる。他のメディアではそうでもないんですが、こと映画、特に映画館で鑑賞する映画は・・・見終わって外に出たときの、喪失感によく似た言葉にできないあの感覚に戸惑うことがほとんどです。けれど、この作品はそれがまったくと言っていいほど無かった。シネマライズの外へ出て、スペイン坂を下る私の目の前の「景色」は、タカキの歩く先の「情景」と完全にシンクロしていました。作品のストーリーとか全部吹っ飛んで、そういうモノが心を埋め尽くしていましたよ。

 面白い、楽しい、最高だ!、なんていう派手な薦め方は間違っても出来ません。でも、とりあえずすべての人に一度でいいから観て欲しい。それで、何か感じるものがあったならそれは大きなものじゃないかな、と私は思います。そういう類のオススメです。映像美という一点に関して言えば、既存のアニメーションのレベルを遙かに凌駕していますので(もちろんその表現手法もありますが)、その部分で間口は広いのかなと思います。

 それでは感想ともレビューともつかない、中途半端な書き殴りを。以下、過去私が参加した3回のティーチイン、サイン会、ダ・ヴィンチの連載、インタビュー等からの新海監督のコメントを得た上での文章になります。




 『どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。』


 新海誠監督(以下監督)は一貫して、「速度だけを描いた」とおっしゃっています。今作ではそれが特化されている。人と人との距離と時間、それ以外は描かれていない。「秒速5センチメートル」というタイトルをつけた理由もそこにある、と。距離×時間を多角的に、そしてシンプルに描いた傑作だと、個人的にはこの時点で思います。連作短編という形もピッタリはまっていて、正直これがたった1時間の作品だとはどうしても、何回見返しても思えないんですよね。散々「ミュージッククリップだ」と揶揄された第3話にしてみても、込められた情報量を理解するだけで、そんなことは口が裂けても言えませんよ。


 第1話。タカキがアカリに会いに行くお話。中学1年生という、非常に制約のある立場の中での、思い、焦り、喜び、といった感情の揺れ動きを機敏に感じられて、おそらくすべての人が納得できる普遍的なつくりになっているのではないでしょうか。一般的に評価が高そうな部分です。まあ、雪降る中で火のない納屋で一晩過ごしたら凍死確実とかツッコミがあるのも事実ではありますが(笑)。

 第2話。カナエの報われない恋のお話。それと同時に、タカキの求める「何か」が手に取るように分かる・・・恋愛ってのはこういうものだなぁと素直に感心してしまいました。一見、タカキがカナエの気持ちを分かって、それを振り回しているようにも見えますが・・・自分の気持ちすら持て余し気味のタカキと、それにより誰をも近づけさせない雰囲気を纏ったタカキの重要な部分に踏み込んでくる、踏み込める唯一の存在のカナエとが凄く近いな、という感想を持てる・・・女の子受けがよろしいエピソード。

 第3話。タカキとアカリの、ある意味究極のつながりを描いたお話。既存の価値観を、固定観念を、凄く忌まわしく感じるとともに・・・そこからの開放感を謳っていると思います。山崎まさよしさんの歌も、むしろそこにあるのではなく、それ以上の、言い方は悪いですが踏み台としての力強さ、土台感(?)がどうしようもなく素敵。





 大部分のオタは結婚に過剰な幸せを思い馳せすぎ。俺も含めて(笑)。監督自身、人生において良いこと悪いことがあるけれど、それが直接幸せ不幸せには繋がってないと言っています。例えばタカキ。最後の笑みを浮かべて去っていくタカキに対して、それが不幸せであるとは思っていないと監督は言っている。人生はこの後も続いていく・・・逆に言えば、生きることそれだけで幸せなことだし、結果結ばれるコト結ばれないコトは本当に幸せ不幸せなことなのか?と訴えていると私は感じました。それはこの後に書く、本当の距離というセンテンスに繋がってきます。


 タカキとアカリの距離について。私にはどうしても、タカキとアカリが離ればなれになったという感覚が持てない。第1話では

 「彼の心がどこにあるのか、わかった気がしたのに・・・」
 「彼女の心がどこにあるのか、わかった気がした」

 この台詞(正確にはこれは予告編の部分なのですが)の「すれ違い」に、表裏一体の危うさを感じたのですが、第3話でそれが証明される。作品自体、タカキの視点が大部分を占め、それは連作という形で当然なわけですが、それでも・・・アカリの視点を想像せずにはいられないんですよ。アカリの思いが、作品中に示される表現・・・タカキの夢、想像でないとしたら・・・第3話において証明される回想、タカキとアカリの思いは絶対に、絶対に近しいものなんですよ。

 先にアカリのほうから。一見、新しい伴侶を見つけ、幸せそうな彼女ですが・・・まあそれについて責める人はいらっしゃらないと思います。でも私には、本当にどうしようもなく一方向なモノではない、アカリの思いにはどこかに陰りがあると思うんですよ。それは第3話でよく描かれている。
 アカリ自身、第3話での表情を見るだけでも・・・物憂げな感情が手に取るように分かります。マリッジブルーとはよく言いますが、それともやや違う・・・彼女自身の生きてきた証というか、それを後悔していないかというとそれは違うんだなぁと表現されているような気がしてならないんです。彼女は彼女としてどうしようもない心の葛藤を抱え成長してきた、ある意味、彼女の「第2話」を重ねて観られる感じが強くあったのですよ。その意味で、世間で言われるような・・・女の子の吹っ切りの速さという面を、裏返して感じられたのはありました。

 そしてタカキ。第2話でのカナエに対する接し方はいかんともしがたい(笑)。もうすでに「離れて」いるアカリに対して、明確な思いはあやふやになっている。(ここ重要) 彼自身、思いはあるのに、現実が侵蝕されている状況・・・向かうべき対象が存在しない現実。身近に寄り添うカナエに心地よさを感じつつも、本能的にどこか拒絶してしまう。ああ、どうだろう?
 第3話にしても、タカキはちゃんと独立している。会社勤めで彼女もいる。これがニートやら俺みたいなキモオタならともかく(笑)。社会的には成功と十分に言える立場を得ている。でも満足感は無い。求めるものはここにはない、と感じている。凄いですよ、これ。何が凄いって、例えば・・・子供のころ川に流した笹舟を、大人になっても追いかけている感触。無理だと、無駄だと、心底諦めていることを、現実に不可能だと理解しているのに心知らずに手を伸ばしていること。誰もが持っている虚脱感。言葉にしてしまえばそれはとても残酷なことではあるけれど、人間が生きるって実はそういうことじゃないですか? 欲望の根源として、子供の頃見た風景、情景は・・・たまらないくらいの彩りを持ってどこか人それぞれの心の隅に在ると思うんですよ。それを揺り動かされた感じです。

 2人が歩いてきた道程を第3話では「端的に」見せているわけですが、どうしても外せない部分をピックアップしてみると・・・まずはアカリがタカキへの手紙をどんなカタチであれ、まだ持っていたこと。2人が同じ昔の夢を同時期に見ること。互いに郵便受けの中を期待して確認しているところ。郵便ポストを気にしているところ。タカキは海と空とを、アカリは本の中に外の「世界」を見出しているところ。タカキは雪がちらつく曇り空を見上げ、アカリは腕組むカップルを見上げているところ。カナエの、波と飛行機と帰り道とロケットと、手の届かない何かを見送るところ。タカキは付き合っている女性とすれ違い、アカリは付き合っている男性と一緒に居て、2人がそれぞれ新しい生活の中で「色彩」を取り戻していくところ。2人がそれぞれ一人きりで教室に座って窓の外を眺めているところ。そして・・・あの踏切のシーン。
 この第3話の流れの中で、山崎まさよしさんの「One more time, One more chance」が流れるシーンの時系列は一度巻き戻るんですよね。

 2人が距離を置いて、共通な時間もあやふやになり、一般に言う疎遠になっていく過程と・・・2人のベクトルが同じくなっていく過程。決して交わることはないけれど、「いつかまた一緒に桜を見ることが」できたこと。踏切ですれ違いつつも、逢えることはない。厳しさと柔らかさと、冷たさと暖かさが同居したラスト。タカキには分からないはずなのに、何かを感じ取った最後の表情は・・・。


 第三者として視聴している私たちにしかわからない。究極にタカキとアカリはつながっている。最後に舞う桜の花びらのシーン。これは奇跡。監督の理想とする「幸せ」とはこれじゃないのかな?と思いました。人と「つながる」こと。現実は厳しいのかも知れないけれど、どこかに優しさを感じられれば・・・タカキが第3話のラストに「色彩」を取り戻していく姿は、監督が一番伝えたいことなんだと思います。ティーチインでもおっしゃっていましたが、周りの風景の美しさに救われたというのは、単に美術的なことだけではなく、その場の空気、匂い、光、音、全てによって逆に自分自身を見いだせる、鏡にも似た「世界」の構造を表現しているんじゃないかな、と私は思うのです。そういう意味で、「物語」として欠けている部分があるのは当然で、部分部分キャラの自発的行動に任せている節が見受けられます。あえて描かない心理、表現を監督はチャレンジブルな作品だったとおっしゃっていますが、そこまで深く考えずともこれが「そういう意図を持って」作られた作品だというのは、私みたいな人間には気づくでしょう。


 結果的に、この作品は人を選ぶ。その境界「点」は・・・「取り戻せない昔の自分に似ている」か否か。


 漫画『G戦場ヘブンズドア』の台詞から引用させていただきましたが、正にそのとおり。自分の過去の思い出に重なる部分を増幅し、言葉に、映像に、音楽に、他のあらゆるメディアにない何かを引き出す意味でつくられた作品。だから惹かれる。昔の自分に重ね合わせることのできる抽象性。だからこそこんなにも打ちのめされた感覚に陥る。山崎まさよしOne more time, One more chance」がこんなにも響く。誰も生き急げなんて言ってくれないことに気づく。あるのは後悔と自責の念だけか。

 でもそれは・・・間違ってなどいない。人は誰でも前だけを見据えて生きてはいられないのだから。それでも・・・タカキは踏切を振り返り、でも自分の進む先へ足を向けた。それこそが唯一、新海監督が描いたエゴだと私は思います。




 ここからは個人的な戯言。

 私としては、結構アカリの一言一言にビクッっとなる部分があって困りました。「ミミはどうしたの? ひとりじゃさみしいものね」とか「タカキ君は、きっとこの先も大丈夫だと思う」とか。どう考えても「私はひとりじゃ大丈夫じゃない」と言っているんですよね。やっぱりそうですよねー(笑)。

 それに「One more time, One more chance」ですが、曲の抽象性がすごくぴったりとはまってしまったんでしょう。PVと揶揄されるのも分かります。ただ、あの「そうやって いつかまた 桜をみることができると 私も 彼も 何の迷いもなく そう 思っていた」・・・あの瞬間のゾクゾクッとくる感覚は希有なものだと思いますし、それだけでもこの試みは大成功じゃないかなと思います。あの瞬間を味わいたくて10回も映画館に通ったのは何を隠そう俺(笑)。


 そして、なぜこの作品にこれだけ深くのめり込んでしまったかというのは・・・もう言い訳しても仕方ありませんね。俺がもうまるっきり似たような経験をしたことがあるからだよ畜生! しかもつい最近、結婚しますなんてメールが来やがる。ああもう!どうしていいかワカラネーヨ俺! まあそういうわけで、分かりすぎる人間にとって、最高で最低で最強で最悪な一作。メチャメチャ個人的にオススメですよ。PS3で見ればもう美麗すぎてタマリマセン。アカリの可愛さは反則。「One more time, One more chance」PVも最高。ゲド戦記なんてメじゃないっす(笑)。皆も買え。BRも待望ですよ。


 つーわけで、いつもどおりメチャクチャな感想でした。見返すとアタマをかかえそうなのでこのままアップ(笑)。